弁栄上人に影響を受けた人物

増上寺82世 椎尾弁匡

椎尾弁匡上人(明治9年(1876年)7月6日生~昭和46年(1971年)4月7日遷化)は浄土宗僧侶であり仏教学者として大正大学の学長や浄土宗大本山増上寺法主(第82世)など要職を歴任された。また、大正11年(1922年)共生運動を起こし、仏教の日常的社会的な業務生活の上での信仰実践を提唱された。

弁匡上人は弁栄上人が遷化されたその直後、下記の追恩の文(一部抜萃)を捧げられた。

「上人つとに如来光裡に住み給えば、死も死にあらず、慈愍温顔、衆生を摂化し給うこと依然変らない。これを観るものには、別離も別離にあらず、慇懃親切、念仏を勧進し給うこと死後なお同じきを感ずべきである。」
30年前の上人は、米粒名号細字図像に巧みなる異僧として見られ、有縁を給われた。
20年前の上人は、仏跡参拝者として熱心なる信解の鼓吹者、法身仏の主張者として認められた。
10年前の上人は、解行漸く円熟し、図像結縁の浄資を挙げて文書を編纂頒布し、各地の有縁を糾合して浄行の結社を成就し、自他等しくミオヤの光裡に住せんとせられた。
積年の行他により因縁漸く熟し、随喜の僧俗、東西に響応し、講演同修となり、別行結社となり、儀法要定まり、教会道場の設立となり、今後10年の成果、自他得脱の大益を察せしむるものがあった。
かくして熱心なる光明会の各地に発起せらるることとなったのは、皆人の目睹〔=実際に目撃すること〕参加せられたことで、今更絮説〔=くどくどと説明すること〕を用いない。
上人もし更に10年在さば、その育成せらるるところ摩天の大材となったであろうに、今にして夭折〔=若くて無くなる〕を見るは、残念とも遺憾とも申しようのないことである。〔中略〕
有縁の同行者のすでに感じ給える如く、上人の死に策励されたる大飛躍が必要である。基督刑せられて十二使徒の新活動となり、釈尊示滅して諸大弟子の教化力となれる如く、上人逝きて弥陀慈光顕彰の念仏、同行の一般的活動とならねばならぬ。これ慈教に酬い光明に喜ぶ自然の発露である。」
(『ミオヤの光』追恩号T10年1月号)

「更に10年」弁栄上人に活躍し教えを伝えて頂きたかったこと。また、遺された有縁の弟子や信者の信仰的生活が日常的、社会的な活動となることを期待された追恩の文となっています。

また、弁匡上人は釈尊入滅における弟子の悲しみを語る中で、

「近世の大徳弁栄上人の講席に列し、始終その馨咳に接していた信者の述懐に、「上人にお話しは聞いていてもハッキリと解らなかった。しかし、なんとはなしに聞きたいので、聞きに行っていたが、イザ亡くなってから考えると、その解らないうちに温かい導きを受けていたことを感ずると同時に、今ふたたびその馨咳に触れんとしても触れることのできない淋しさは、泣くに泣かれぬ辛さである」とのことであった。取ってもって釈尊の入滅を悲しむ当時の衆生を偲ぶことができる。」
(『椎尾弁匡選集』第7巻202頁)

と、釈尊御入滅と弁栄上人の御遷化とを同列の出来事として語られており、弁栄上人尊崇の想いが伝わってきます。