弁栄上人に影響を受けた人物

京都大学教授 中井常次郎

「初対面」 中井常次郎

「弁栄上人と云う世に秀でたる出家あり。常に仏を見奉り、その声を聞き、みむねのままに、西に東に念仏を勧めて暇なき御方なり。参詣せぬか」

と誘われたけれども、仏とは死後の世界の救主にて、今、我等人間に見える筈がないといって、友の話に何の興味も覚えず、むしろ笑うべき迷信だとして取りあわなかった。けれども、かさねがさねの誘いに、ひじり(聖)とは、どんなお顔の持主かと、それが 見たさに、大阪府下、三島郡豊川村の法蔵寺で、念仏三昧の導師をして居られた弁栄上人を訪ねる気になった。
恒村さん御夫婦と共に京都を立ったのが、大正8年(1919年)9月30日の朝であった。大阪駅にて中川弘道和尚と落ち合い、4人連れで箕面より秋の野道を語りながら歩んだ。
寺に近づき、木魚の音が聞えて来た時、困った処へ来たものだ、代々真宗の流れを汲む家の子と生れ、他宗の行に加わるは、開山上人(親鸞聖人)にすまぬと、この時ばかりは逃げ帰りたくなった。けれども折角はるばる来たのだからと、兜の緒をしめ敵地に乗り込む心地して、寺の門をくぐった。

上人のお室に通され、しばし待つほどに、本堂での木魚の音はやみ、三礼の声も静まれば、ほどなく襖を開けて上人が入ってこられた。
頭を垂れて聖者に敬意を表して居た自分は、 上人のお顔を拝むことができなかったが、お裙(くん)のすそのさばきいとしとやかに我等の前にお坐りになったのを見ただけで、はや霊感に打たれた。

恒村さんの問いに答えて、法を説く上人の御姿、何に譬えよう。30余年、まだ一 度も見た事の無いまごころのあふれ。
心の親を訪れて 幾代久しくさまよったであろう我、今ここに親にめぐりあいし思いして、したたるうれし涙のしずく、ひざをうるおした。
人は、すべて濃き薄き違いこそあれ、鉄面皮と云う皮をかぶり、自分勝手のふるまいをする。せめやそしりをはじくこの憎き皮のへだてが人の交じりに障りする。けれども、今この御方は、生れたばかりの赤子の肌か、蚊遣りたてのとんぼが、かよわき羽根を日に干しながら、そよ風にゆらるるすがすがしき感じ。 わが思いの全分が受け入れられ、心と心がじかにに触れ合う心地がした。しかも仰ぎ見れば、ゆるぎなき御人格は、雲にそびゆる富士の高嶺の国々にまたがる如く、どっしりとした感じを与えるのであった。
友は何を尋ね、上人は何を説かれたか、その長い話が何で有ったかを気づかぬほど、自分はひとり思いにうつとりとしていた。
上人はおひざを私の方に振り向けられて

「中井さん、何か聞く事はありませんか」

とお言葉をかけて下さった。けれども自分は聞くためで無く、見るために来たのだから、

「何もありません」

と答えた。上人は、

「生きてまします仏様が……。大宇宙そのままが……。今現に、ここに在ます  親様を……」

といって、座布団をあとにして仏身論をお説き下さった。また信仰と念仏の心について聞かせて下さった。それこそ自分が今まで聞きたいと願っていた信仰問題のおもな事柄であった。けれども、それらは今まで聞いた事のない新しい有難い説法であったから、たやすく受け入れることができず、大いに考えさせられた。
本堂ではまた木魚の音と念仏の声が盛になった。私共も上人に続いて三味道場に入り 一座の御話を聞かせて頂いた。 「卵の譬え」、「稲の譬え」、「べんとう食べて」のお話など、まことにその通りだと感心した。お別れに臨み

「今日は十分の時なく、満足を与える事ができずお気の毒であった。 また会う日を待たれよ。どうか心を宇宙と等しくする様に」

と云って、お十念を授けて 下さった。

(『乳房のひととせ 上巻』中井常次郎著 1~5頁参照)