弁栄上人に影響を受けた人物

眞生同盟初代主幹 土屋観道

土屋観道上人(明治20年(1886年)~昭和44年(1969年)2月19日遷化)弁栄上人の直弟子の一人。佐賀県生まれ。明治43年に早稲田大学理工学部に入学するが、同45年に宗教大学に編入し、椎尾弁匡上人の推挽により中島観琇上人の弟子となる。大正4年(1915年)に弁栄上人を訪ね、深い感化を受ける。同5年には観琇上人の許しを得て、芝学寮多聞室に弁栄上人を迎え居を共にする。「如来中心主義」を掲げ、後に「眞生主義」を提唱し独自の活動を始め、この信仰に共鳴する信者を「眞生同盟」として組織し、自ら主幹として多くの信者を導いた。

弁栄上人を想う

一、因縁

世の中に、人という人は多いけれども、その中で、自分の魂の奥底に留まって、永く自己の師匠となって頂く人と云うと、まことに少ないものです。その少ない中に、上人こそは特に私にとって無くてはならない、最も尊き人格の第一人であり、私が人と生れて一番嬉しいことの一つは、この上人にお目にかかる因縁に恵まれたことであります。

あの恭謙な清く尊い無我の上人の聖容は、今も尚わたくしの心源に輝いております。

私が初めて上人にお目にかかったのは大正4年の春、私が丁度宗教大学を卒業する29歳の正月でありました。かねて上人の事は念仏三味発得の人としてその名を聞いておりましたので、ただ一人何の紹介もなく、上人を浅草の誓願寺に訪ね、初めてその温容に接しました。上人はその時、お寺の庫裡の2階で仏画を描いておられたようであります。

当時の私は、念仏の信仰に入り、中島観琇老師に師事して喜んでいた時であり、又笹本戒浄上人と共に度々山にこもって別時念仏をやっていたときであったので、自分の入信以来の体験をそのまま上人に申上げたつもりであります。

今から思うとすべてが恥かしい極みでありますが、上人はそれを大変喜んで下さって、さらに御自身の生立ちやら、念仏三味の体験を語って下さいました。(後日聞いたことですが、私の辞した後、上人がかたわらの人に「今日土屋という若い学生が訪ねて来たが、大変三味が進んでいた」と大変喜ばれてお話しになったということをその方からうかがいました。)

私は日の暮れるのも忘れ、夜も大分遅くなって芝の鑑蓮社にもどりましたが、途すがら、上人のただ人でないと云う深い印象にとらえられ、尊崇の念しきりなるのを止め得ませんでした。その時の上人は恰も雲中の人かの如く、その風貌やまなざしが、今まで見たことのないお姿に拝せられました。

もっとも、その服装そのものが普通の僧衣でなかったのもその一因であったかもしれませんが、しかし、それは決して単なる特異な服装からばかり来る感じではありませんでした。

その年の4月学校を卒え、6月に越後寺院の特請を受けて、上人と共に仏教講習会に行くことになったのが上人にお伴する機縁となりました。7月、私は観琇老師のお伴をして北海道に行くため上人と越後の中条でお別れしましたが、翌5年の1月には、はからずも上人を多聞室にお迎えするようになったのであります。

それは、その年の秋に上人の下谷の教会で、或るお弟子が上人のお金を多分に費い込み、上人が色々とお困りでした。そこで私は観琇老師のお許しを得て、上人を今の多聞院(当時の学寮多聞室)にお迎え申上げたのであります。上人が奥の六畳、私が入口に近い隣の三畳を自分の部屋としました。ところが、その年の9月には、観琇老師も「俺も行く」と一室を増築して鑑蓮社から引越して来られ上人と老師と私の3人で自炊するようになったのであります。

その後、私の弟や、いま別府に居る山口常照氏、又上人が仲人の労をとり成婚の司式をして下さった私の家内などが一緒になり、爾来大正9年御遷化の時まで、その籍を多聞室に置かれたのでありました。今から思っても、当時の学寮は、その間に掲げられた「聖者の家」という門標さながらに、全く光明の生活に輝いていたことが偲ばれます。又この間、各地の御巡錫のお供をし、特に私の案内で満洲・朝鮮を2人で旅したことも忘れられない思い出であります。

 

二、御日常

「心内にあれば、色外に現わる」とは昔からよく云われることでありますが、上人の御生活は全く念仏の現われとしか思えません。と云って、そのくせ上人の御日常にはあまり称名の御声が口に出ることはありませんでした。しかし、これは上人が念仏せられない為ではありませんでした。

私はそれを、初めのうちは不思議の一つにしておりました。そして、それは上人が念仏せられないのではなくて、全く念仏三味になり切って、光明裡中に安住し給うが故だと知りました。しかもこれは上人が念仏三味の中から、慈光宣伝の為に専念しておられる還相廻向の姿であったのであります。

従って、上人がひと度御仏前に向われて念仏せられる時、特に朝夕の礼拝の時、或は別時三味会の時、上人の念仏は全く無我の念仏三味であって、その声の麗しさ、涼やかさ、あたかも、うららかな春光の中に融け入るような、まるで此の世のものと思えぬ神々しさでした。

私はその声に、何という涼しい、透き徹った、美しい声だろうかと、自分の声を止めて時々聞きほれることがありました。これは、法然上人のお歌に「阿弥陀仏と心は西にうつせみのもぬけはてたる声ぞ涼しき」とあるのと思い合わせて、そのことの間違いでないことを思うのでした。

それに今一つは、上人の御生活には、いつも如来の慈光に輝いておられるような風光があったことです。これは特に上人の御姿に接した人々の多くが感ずるところでありますが、いかなる場合にも、何か御光の中に居られるような感じがせられました。これは上人の御生活が、いつも念仏三味に入りひたっておられる証拠であり、また上人の霊性の輝きであって、希代の宗教的偉人であらせられた点でありましょう。

今も心にのこっている多聞室や各地での思い出は、別にあらためて書きたいと思いますが、その御日常は、いかにも質素であり、万事につけて少しの隙もあらせられなかったことはよく人の知る処であります。ほとんど喜怒哀楽を外に拝することは出来ませんでしたが、滅多に人と議論なさることなどなく、ただおそばにいるだけで何となく温かい霊容に包まれ、いつの間にか信仰の話、特に如来様のお慈悲の話中に引き込まれてしまいました。徳高きは勿論、学も深く、当時の新しい学問書もいつの間にか薬籠中のものとされ、あらゆる方面の常識にも広く通じられたことは人並みではありませんでした。その為反って、当時、上人のことを「伝統宗義を妄りにし、あたら流行の新思想を自説のごとく振り廻わす」と非難する人も多く出るくらいでした。とにかく、上人に接した多くの人々が上人をミオヤの如くお慕いしたことは他にその例を見ないと思います。

(『大悲に生きる』175~179頁参照)