墨絵の禅 錦絵の浄土

南隠、南岳といった禅僧や、坐禅にうちこむ在俗の人たちと親しいかかわりがあったといっても、聖者の念仏が禅的であったのでは決してありません。念仏門と禅門とではそこにおのずから異なった宗教体験があって、おのおのを支えているのです。そのことを、時に聖者は魚釣りにたとえて「禅は水を澄まして釣り上げ、念仏は水をにごして掬いあげる」とその相違を指摘し、又絵画にたとえて「禅は墨絵のごとく、念仏は錦絵の如し、彼はその素質を喜び、これはその美を喜ぶ」とも言い、両者の特徴とするところを説いたことがありました。

(『弁栄聖者』藤堂恭俊著 88~89頁参照)