弁栄上人に影響を受けた人物

増上寺86世 藤堂恭俊

藤堂恭俊著『弁栄聖者』の後記

弁栄聖者の伝記執筆について、光明会本部理事長長谷川順孝師から依頼をうけたのは、確か養母の信光院妙範大姉(藤堂庫子)が清きみ国に化生する少し前のことであった。聖者のみ教えを直接頂いた妙範大姉の信仰の灯が、やがてわが一族に点ぜられ、細ぼそながらも信仰に憧れ、それを生命とするような環境のなかで育った私は、この依

頼をうけた時、書かして頂こうという気持が湧いて出た。しかし自分をふりかえってみた時、到底その器でもなく、他に執筆すべき研究論文が山積していることを思うと、ご辞退しようと思いなおしたこと一再ではなかった。それでもなにか後髪をひかれる思いがして、辞退を強行するだけの力が出てこなかった。(大正九年十月開催の知恩院)勢至堂での聖者のお別時に妙範大姉に抱れて撮っている記念写真中の自分のあどけない幼時の姿を見るにつけ、よくよくの御因縁なることを痛感した。又ある時は、聖者の御一生涯を繙いて、今日までどうにかまねごとにでも聖者の教行証を信奉してきた私の未熟な信仰を、このままで放っておくと萎縮しそうな気がして、執筆を通して新生への活路を見出されたならばこの上ない悦びであるとも思い、長兄俊章の同意を得てついにおひき受けすることにした次第である。

『弁栄聖者』の一節

歴史的伝灯を誇るようになると、だんだんその教えは固定化し生気を失いがちである。よし形骸は立派であろうと、その内を流れる宗教の生命とするところの生きいきとした宗教的情感が波打っていなかったとしたならば何になろう。法然上人の聖意にかなうためには、法然上人が教示し賜うた教行を文字通り追体験するより外に仕方がない。この追体験された自内証の世界を論理的に理路整然と、その時代の言葉によって表現して始めてその教えは、時代に生命をもつものである。聖者こそはまさにその人であったというべきであろう。