弁栄上人に影響を受けた人物

光明修養会上首 藤本浄本

藤本浄本上人(明治12年(1879年)7月15日生~昭和46年(1971年)1月4日遷化)は弁栄上人の高弟の一人であり、光明修養会上首として光明主義護持発展に尽力されました。

明治21年(1888年)山口県の神宮寺で得度。明治31年に増上寺76世山下現有より伝宗伝戒を受け、さらに宗教大学専門学院華厳部を卒業し、明治38年には宗教大学教授、明治40年に神宮寺住職に晋董、明治42年には宗乗の教授となり、大正13年(1914年)に西蓮寺19世住職となられた。

光明会の機関誌であった『観照』の昭和8年(1933年)1月号に藤本浄本上人の「弁栄上人の御出世なかりせば」との文が掲載されいます。そこに弁栄上人との出会いと思いが述懐されているので全文転記しておきます。

もしも弁栄上人が、この世に御出現で無かったならば、人様はとにかく、私はいかになっていたであろうか、思うだに恐ろしくなります。言うまでもなく、教えそのものは人を照らす力はありません。これが人を通し、人格に体現されて始めて人生の光となり、人を導く力となるのである。仏陀の教えは尊いものではあるが、それ自身は何等人を照らすものではない。人格に具現されてはじめて人格を指導する光となり、力となるのである。

私は10歳にして仏門に入り、42歳に至るまで専心仏典に親しみました。当時古今の書籍に通じ、東西の学を究めた御方は沢山におられました。しかし何れも知識として知っている御方のみで、これが人格に具現されていない。自然、私の人格指導の光となって下さらぬ。そこに無限の淋しさと暗さとがあったが、図らずも御上人様の御人格に触れてこれが取り除かれた。実に弁栄上人様は一切の教法を人格に体現された御方であって、法の身そのものであらせられた。私にとっては生ける救いの御仏と拝まれました。

私は大正8年(1919年)10月11日より5日間、初老記念として自坊にお上人様を特請して、御教誡を受くる機縁が恵まれました。いよいよその日は参りました。私は未だお上人様へは一度も面識は無かったのでありますが、駅で御迎えしたら分ることと思い、山陽線大畠駅のプラットホームに御待ち受けしておりました。予定通り列車は着きました。

客車より一人の聖僧が御下車遊ばすと見るに、御身より霊気を放ち、涼しい、いきいきした光が、御身の周囲一間四方に輝いています。

私はこの聖者の放ちたまう光明を拝するや、覚えず低頭合掌敬礼し、念仏せずにはおられはせんでした。この御方が年来敬慕せる弁栄上人様であらせられた。私はその霊気に触れてより恍惚として酔うたようになりました。

心機一転し気持ちは全然変わりました。その気分は今に続いています。尽未来際消えないものと思いますが、当時を回顧するとき、何時も生身の如来を拝する気持ちが起きて、全身に強い力を感じます。

私はアナタの人格を通して、弥陀の霊格を偲ばして頂いたものと信じます。アナタの御人格の上には浄土の実在も、弥陀の存在も光明も救済も、乃至一切の仏法もそのまま体現されています。生ける仏教の全面を御人格の上に拝することが出来ました。田中木叉先生が「弁栄聖者の御一生は如来光明のさながらの反映に在しませば、誰れか大慈悲の霊応を仰がざらん、誰れか光明の摂化を信ぜざらん」と御伝記を結ばれたが、いかにも私の意中そのままの告白である様に思われて、いつもいつも口ずさんで居ます。

もしもお上人様の御出現がなくば、私は理屈の剣で武装せる一個の動物として過ごして居たであろう。而して永遠の暗路を辿ったでありましょう。年々歳々、お上人様の御祥忌を迎うる毎に、一人お上人様の恩徳を追慕するの情が湧き出でて、無限の感に打たれます。