弁栄上人は布教のため、日々空いた時間や夜遅くまで、書・仏画を描かれていました。
数多くの作品の中から一部をご紹介いたします。
観智院所蔵
弁栄上人道詠 「永き夜の眠の夢もさめにけり 師走八日のあかつきのそら」 「中島僧正表晋山晋百山祝儀仏陀禅那拝写」
中島観琇上人 「無識元来為瓦全順縁逆境豈違天入山学道 非吾事口称一行百万遍 晋山所感加茂禅房西阿」
大正7年中島観琇上人京都百万遍知恩寺66世晋山の記念に上人が筆を執られたもの。
大正11年土屋観道上人が中島観琇上人ご病床見舞いの際「俺にとって大切な記念の品だからお前に譲る」と。
観智院所蔵
「仏陀禅那」
恋しくば南ムアミダ仏と称うべし 我は六字のうちにこそ住め(親鸞上人道詠)
弁栄上人と直接ご縁のあった岐阜の内田鉄之助氏の旧蔵品である。内田夫妻には一人っ子で病弱の娘がいた。小学校の卒業を間近にせまった頃、両親は娘の健康を案じ、女学校進学を断念。ところが向学心があり成績優秀な彼女を女学校へ進学させて欲しいと担任の先生が熱涙をうかべて両親を説得。両親も進学させたいのであるが、それ以上に娘の健康を第一に思いお断りした。それでも再三担任の先生が訪れ進学を勧め、その熱意と親心から娘を進学させることにした。
娘は女学校の4年間蛍雪の功を積み、学術優等の賞を授賞し無事卒業。しかし、風邪が元で病床の身となり、さらに病状が悪化していき、看護する両親の手をしっかりにぎり「先きだつ不孝をお許し下さい。お父様お母様お元気でね。」と18年間の養育の恩を感謝し眠るように亡くなった。
悲哀の底の両親を岐阜の井深蓮教尼が哀れみ、嫌がる内田夫人を強引に自坊の庵室に招き滞在中の弁栄上人に引き合わせた。弁栄上人は内田夫人の来訪に慈顔を向け、離れた机の処から段々内田夫人の所ににじり寄られ、心から娘の死に哀悼の言葉を伝え、次第に如来大慈の心を説かれた。ついには内田夫人と膝が当たる程に接し、慈悲の言葉は愚痴黒雲に覆われた夫人の心に温かき光りを及ぼし、弁栄上人の慈愛が生きた仏を拝むかの様に夫人には写った。夫人は、
「上人様、私の娘は身体が弱かったのです。それを先生に勧められて無理に女学校までやったので、過度の勉強が崇ってとうとう死んだのです。何もかも嫌です。世の中が呪わしいのです。人を呪いたいのです。でも今お上人様のお説法を聞いているうちに、そんな恐ろしい考えが消えました。お上人様、私の娘は今頃どこでどうしていますことやら。娘の魂の相はどうなっているのでしょうか」
合掌して涙ながらに尋ねた。すると上人は、「ハアそうですね。見てあげましょう」としばらく目を閉じ念仏された。やや経って
「奥さん一寸と待っていて下さい。今のお嬢様の相を書いてあげましょう」と夫人の目の前でスラスラと観音さまを描かれていく。それを見て内田夫人は吃驚しました。というのは、その観音さまのお顔が全く亡き娘の顔にそっくりなのである。驚いて口もきけない夫人に上人は
「お嬢さまはね、此世の勉強がお役に立ってお浄土でこんな尊い相となって勉強していらっしゃいますよ。そして、お母さん私が恋しかったらお念仏してね。私はお母様のお念仏の声の中にいます。お念仏で逢いましょうね。と申されていますよ。」
慈愛の一言一言に夫人は今更のように唯人でないことを感じ、眩しい様に拝まれた。すると上人は、なお慈音を続け、
「この円光の所に讃をかいてあげましょう。」と申され、「恋しくば南ムアミダ仏と称うべし 我は六字のうちにこそ住め」と親鸞上人のお歌を金泥にて書き、夫人に与えた。その後、内田夫妻は弁栄上人の慈音を信じ、熱心な念仏者となられ光明中の歓喜の日々をおくられた。(『めぐみ』117号、昭和42年5月号参照)伝記などから、大正6年12月に揮毫されたものと特定。
衆生ほとけを憶念したてまつれば 仏もまた衆生を憶念したまふ 出典―善導大師『観経疏』「親縁」
私達衆生が仏を念ずれば、仏もまた衆生を念じて下さる。
一人子を想う阿弥陀如来の広大な慈悲を、その脇侍である観音菩薩の母なる慈悲の姿によって現している。
江戸時代、幕府から厳しい弾圧をうけていたキリシタンは、隠れキリシタンとして密かにキリスト教を信仰していた。彼等は子を抱く慈母観音像をキリストを抱く聖母マリアとして、もしくは観音菩薩に似せた姿を聖母マリア像として信仰し篤い祈りを捧げていた。奇しくも弁栄上人が愛(慈悲)を説くとき、この善導大師の「親縁」を引用し、更にキリスト教の聖書を引用され「愛するものよ、我等互に相愛すべし。愛は神より出づるなり。愛なきものは神を知らず。神は愛なればなり。それ神はその生み給える独り子を賜うほどに世の人を愛し給う」などの箇所を引用され、信仰の中心真随は感情であり、神仏と衆生が相愛することを通して育まれていくことを説くのである。(「愛楽」『ミオヤの光』縮刷版二巻413頁)
弁栄上人はキリスト教と特に親和性のあるこの親縁図に、そんな仏教とキリスト教に通底する相愛の真理を込めている。
三十六重円感応 網羅群品出飄沈 天冠化仏標垂跡 沙界随機演妙音 瓔珞満身籠皓月 楊枝在手露真金 我生多煩常帰仰 鼠飲不知江海深 釈冲黙之詩 弁栄拝書
三十六も重なる円かな感応〔の力を備え〕、あらゆる人々を浮き沈みの迷いの世界から救い出して下さる。宝冠の化仏は〔阿弥陀如来が私達を導く為に仮の姿をもってこの場所に〕現れて下り、砂の様に数多あるすべての世界の人々の機根に応じて、妙なる音を奏でて導くのである。瓔珞に満ちたお身体の中には明るい月が宿り〔麗しい光を放っている〕。手にもっている柳の枝からは真金の露があり、 我等衆生の病気を〔癒やして下さるので〕多く者が常に帰依している。〔ただ残念なことに大願成就へと導いて下さるのが観音菩薩であるのに、病気平癒などの、小さな願いのみで信仰するのは〕鼠が江海という大河の深さを知らずして、少量の水を飲むようなものである。
この賛は南宋の僧、石芝宗暁(一一五一—一二一四)編纂による浄土教文献二八四の詩や文を蒐集した『楽邦文類』全五巻の第五巻に修められている冲黙(詳細不明)の詩「十六観近体詩」の中の「観音観」の全文である。賛冒頭の「三十六」の数の意味するところが不明であるが、弁栄上人の伝記『日本の光』三九二頁に「三十六」の数についての法話が記されている。