行誡と弁栄展

令和元年5月11~19日、弁栄上人百回忌、また、福田行誡上人日本仏教再興百五十年を記念して、全国の有縁の地に収蔵されている行誡上人と弁栄上人、珠玉の作品を東京の名刹寺院、両国回向院に結集し展示いたします。当院は若き弁栄上人と縁の深い福田行誡上人が住持された寺院であり、弁栄上人の遺跡寺院でもあります。

 

日時

令和元年5月11日(土)~19日(日)

開館時間

土日は10時~17時

平日は14時~19時

場所

東京都 | 両国 回向院

〒130-0026 東京都墨田区両国 2-8-10
電話番号 03-3634-7776

 

『百回忌記念墨跡仏画集』

『百回忌記念墨跡仏画集』は弁栄上人百回忌を記念して、全国の遺跡地などに所蔵されている弁栄上人染筆の遺墨1000点を調査し所収しています。

作画-山崎弁栄 解説―金田昭教 価格-送料・税込みで、8360円です。

なお、「行誡と弁栄展」会場でも販売しております(送料を引いた7560円です)

申込-メール aketamaster01@gmail.com 電話 090-4340-1813 FAX 020-4622-7519まで、お名前、御住所(郵便番号)、電話番号をお知らせの上お申し込み下さい。

 

 

 

 

遺墨展のチラシ

行誡と弁栄展チラシHP

講演 その1

日時:令和元年5月12日14時~15時30分

場所:回向院本堂にて

講師:鵜飼秀徳氏

講題:「廃仏毀釈~150年目の寺院消滅~」

講師紹介:鵜飼秀徳氏(1974年生)は、ジャーナリストと浄土宗寺院の副住職という二つの顔を持つ希有な人物です。鵜飼氏は、大学卒業後に報知新聞社で記者として働きはじめ、後に日経BP社に入社してジャーナリストとして活躍しました。しかし、近年、日経おとなのOFF副編集長という経歴もありましたが、昨年、日経を辞めて実家でもある京都の浄土宗寺院の副住職となりました。現在は、僧侶として働きながら、鋭意ジャーナリストとして執筆活動を続けています。

そんな鵜飼氏を一躍有名にしたのは、2015年、日経BP社在籍中に出版した『寺院消滅 失われる「地方」と「宗教」』でしょう。これはベストセラーとなっていて、さまざまなメディアで紹介されています。この他、2016年には『無縁社会 彷徨う遺体 かわる仏教』を発表し、2018年には『「霊魂」を探して』、『ペットと葬式 日本人の供養心を探る』、『仏教抹殺 なぜ明治維新は寺院を破壊したのか』を発表しています。いずれの著作も寺院の存在意義や、供養すること、いのちの存在について考えさせるような内容となっています。

この度の「行誡と弁栄展」では、二人の高僧が活躍した時代背景の重要なポイントである、仏教排斥運動の「廃仏毀釈」について鵜飼氏よりお話をいただきます。鵜飼氏の『仏教抹殺』でも語られていることですが、明治に廃仏毀釈が行われる以前の日本の宗教事情とはどのような状況であったのか、また何がきっかけになって廃仏毀釈がおこなわれるようになったのかなどを論じていただきます。

明治維新から150年という歳月が流れ、廃仏毀釈などはるか過去のようにとらえている人も多くいらっしゃると思います。しかし、果たして本当に、廃仏毀釈を過去の出来事として捉え、現在に関係がない事象としても良いものなのでしょうか。もしかしたら、現代が最も仏教が毀滅してしまう可能性をはらんだ時代なのかもしれません。過去の出来事を振り返ることから現在を照射してみることで、見えてくることも多くあろうかと思います。ぜひとも多くの方にご来場賜り、ともに学んでいただければ幸いです。みなさまのお越しを心からお待ちしています。

講演 その2

日時:令和元年5月18日14時~15時30分

場所:回向院本堂にて

講師:加藤智(さとる)神父

講師紹介:ヨハネ加藤智神父(1954年生)は愛知県のご出身で、オックスフォード大学神学部を首席で卒業後、三十五年間、オックスフォードの修道院にて神に仕えてこられました。その後、お母様を看取るためローマ教皇の許しを得てカトリック川越教会に移籍されました。幼少の頃より、祖母様のご縁もあって法然上人に深く帰依され、また、藤本浄彦上人との親交を通して、弁栄上人にも深く帰依されています。法然上人を介してカトリックと仏教、ことに浄土教との対話を継続的に始め、加藤神父は教会での、ミサを上げていてもお念仏が出てしまうそうです。教会の人から「最近、神様のことを仏様と呼びますね。」と言われる程です。

キリスト教と仏教、確かに異なる教えではありますが、親和し、また通底する真理もそこには必ずあることでしょう。キリスト者の井上洋治氏は『法然 イエスの面影をしのばせる人』の「あとがき」の中で「二十一世紀に必要なことは、諸宗教、諸文化、また人間と自然などの共生・共存であるといわれるが、しかし共生。共存ということは、決して違いをなくして一様化(ユニフォーミティ)することではなく、違いを認め合ったうえで互いに相手を尊重し合う有機体的一致(ユニィティ)でなければならない」と。当に法然上人のいう念仏者の実践態度「恭敬修」であり、弁栄上人の姿勢そのものといえます。そんな、法然上人・弁栄上人をこよなく敬慕する加藤神父のキリスト教神父の視点から弁栄上人のことを論じて頂きたいと思います。

講演 その3

日時:令和元年5月19日14時~15時30分

場所:回向院本堂にて

講師:福田行慈上人

講師紹介:福田行慈上人は大正大学の講師として、また、福田行誡上人ゆかりの本誓寺の御住職さまです。『平成新修福田行誡上人全集』全十巻の監修者の一人として、徹底した調査と研究をされ、現在もライフワークとして、研究を進めておられます。今回の遺墨展でも、弁栄上人のことを詠われたであろう行誡上人の短冊をはじめてとして、多くの行誡上人関連資料の資料の提供をして下さいます。その行誡上人研究の第一人者である行慈上人に、行誡上人の逸話や功績などを論じて頂きます。明治の廃仏毀釈に敢然と立ち向かった行誡上人の温故を通して、仏教再興の知新を見出す機縁にしたいと存じます。

 

法要

行誡上人と弁栄上人そしてリンちゃん供養法要

日時:令和5月19日(日)16時~17時

導師:福田行慈上人

場所:回向院本堂

趣旨:一昨年3月末、行誡上人と弁栄上人が出会われた松戸市で、レェ・ティ・ニャット・リンちゃんという9歳の女の子が、さらわれて殺められるという痛ましい事件が起きました。
お名前の「ニャット」とは日本を意味し、「リン」は輝くことを意味します。つまり、日本においてベトナムとの懸け橋として輝いてほしいという、両親の願いがお名前には込められていました。それなのに、日本の地でかくも恐ろしい形で娘を喪ったご両親の心中は、怒りや悲しみ、痛みなど、さまざまな感情が入り乱れて、とても現実を直視などできない状態であったでしょう。

浅草山谷にある光照院を拠点として生活困窮者支縁を行っている「ひとさじの会」は、ホームレス状態の方々への炊き出し夜回り活動で、在日ベトナム仏教信者会の人々と交流がありました。そのご縁から、事件と同年4月末には「ひとさじの会」メンバーや、ひとさじの会メンバーが所属する月一別時念佛を行う「為先会」メンバー等が集まり、光照院にて在日ベトナム人と日本人が一緒になってお念佛会を行い、リンちゃんのご供養を営みました。

あれから2年。みなさまはあの事件のことを覚えておいででしょうか。事件の裁判はご遺族が犯人と向かい合わねばならず、それもまたご遺族には苦しいものでありました。リンちゃんのお母さんは、雑誌の取材において「私は娘の遺体を引き取った時の感覚を死ぬまで忘れることはないでしょう。殴られて腫れ上がり、あざができた娘の顔、棺の中で横になり、つむられた娘の目、娘の冷たい手を握った私の心は、千もの針で突き刺されたようでした。私は泣くことも叫ぶこともできませんでした」と語られています。わが子を傷つけようとする者がいたならば、たとえわずかな擦り傷でさえも許せないことに違いありません。

そして、いのちを奪われたリンちゃんは、どれほど怖かったことでしょう。どれほどツラかったことでしょう。はかり知れない苦痛のうちに最期を迎えたリンちゃんの心を想い、涙しながらお念佛を申し、速く如来さまの救いの御手に抱かれ往くことを祈ります。

そして、両上人の願いに叶うように、少しでも仏法を再興を通して、拙い歩みでも、このようなことが起こらない世界にそれぞれが、勤めていく機縁になればと念願いたします。多くの方のご参列を心から願っています。

回向院同時開催 鳥居清長展

日時:令和元年5月11~12日

詳細はhttps://ukiyoe.jp/

回向院行事「阿弥陀経図会 ぬり絵」

内容:「行誡と弁栄展」開催中に、弁栄上人作画の『阿弥陀経図会』を底本として、ぬり絵の会が催されております。定員50名で予約が必要です。残席が若干となっておりますが、他の日程もございますので、下記詳細をご覧頂き、お問い合わせ下さい。

詳細:https://www.buddhanoki.com/news-/

日時:令和元年5月13日

行誡上人と弁栄上人のご縁

『百回忌記念墨跡仏画集』より抜萃

行誡上人と弁栄上人

弁栄上人百回忌、また、福田行誡上人日本仏教再興百五十年を記念して、二〇一九年五月十一~十九日、両国回向院にて「行誡と弁栄展」を開催する。その勝縁に因み行誡上人と弁栄上人のご縁について記しておきたい。なお、『本集』(『百回忌記念墨跡仏画集』)の301頁にも両人のご縁を記している。

行誡上人について

福田行誡上人(一八〇九~一八八八)は明治維新による日本仏教史上最大の法難、廃仏毀釈の折、敢然と立ち向かい日本仏教の再興に尽力された。両国回向院や、小石川伝通院、大本山増上寺法主や総本山知恩院門主などを歴任され、「八宗の泰斗、教法の重擔この人による」(訳―日本仏教すべての権威者、仏教再興の重荷をすべて引き受けた方)と讃えられ、また同様に「明治第一の高僧」とも評されている。その行誡上人が弁栄上人に送られた書簡がある。
明治十六年、宗円寺にて一切経を閲読している若き僧、弁栄上人の噂を聞きつけた行誡上人は、広安真髄上人(一八四八~一九二二)を遣わされ来謁を求められた。しかし、弁栄上人は「ただ今お釈迦様に拝謁中であるから」と断っている。また、別の用件で松戸に巡錫された行誡上人が再び面会を願われたが、恩師大谷大康上人追恩の百日別時入行中とのことを伝え聞き、謁見を取りやめ書簡(上に掲載)を送られた。「昔は、牟尼世尊、三道宝階を降り。閻浮に還御したもう。一羅漢尼あり。仏に見ゆるに人に後れんことを自ら傷み、身を変じて転輪聖王となり、第一に謁得す。尊者須菩提、石窟に禅坐し空三味を修む。仏曰はく、今日我を見しは須菩提、第一に居ると。栄長老、頃、亡師の喪に居り、独坐念仏すと。至孝至孝、道これより大なるはなし。予は松戸の里に適来し今日而を窃かに憶う。長老を以て、第一謁見の人とす。百千群庶これ言うに足らざるのみ。これ秋風の時、道のために自愛を。菓函欽んで領せり、忽々不宣、三縁老衲、八月二十九日、弁栄長老友簡。」
この書簡の前半は『増一阿含経』説示の内容である。意訳すると、「しばらく他の世界に出かけられていた釈尊が戻ってくることを聞きつけた一比丘尼は、人に遅れず一番に会いたいと願い転輪聖王の姿に変身され、戻ってきた釈尊に第一に謁見した。そんな時、須菩提は石窟にて坐禅し空三昧の修行をしていた。その様子を仏眼をもって察した釈尊は、本日私と一番に謁見したものは須菩提であると言った。」との説を記している。その後に「弁栄長老はこの頃、亡き恩師、大谷大康上人の喪に際し、独り坐り念仏していると伝え聞いた。孝の至りである。これ以上の大道はない。私行誡は松戸の里に先ほど参り、今日汝に面会できるかと窃かに願っていたが〔残念ながらお会いできなかった〕。私行誡は弁栄長老を、釈尊と第一に謁見している人と思っている。(また私が最も謁見したい人である。)一般の方からの汝の噂では、汝の徳をとても言い尽くしているとは思えない。秋風が吹く時節、道のために自愛を。」と。五十歳も年下の若き僧宛の書簡とは思えない強い敬慕と願いが伝わってくる文面である。
「第一謁見の人」とは、その前に引用の経の文意と、伝え聞いていたであろう弁栄上人の行業と評判、そして先に一切経閲読中(釈尊に拝謁中)で会えなかったこと等を勘案すると「第一謁見の人」とは、弁栄長老は釈尊と一番に謁見(近い存在)の人と讃えているのである。なぜならば、筑波山の石窟に籠もり念仏し、一切経閲読の中で釈尊と謁見し、恩師の為に念仏三昧の修行を行ずるという大道を歩んでいるからである。その訳に敢えて「私が最も謁見したい人」と加えたが、それは行誡上人が文面の裏に忍ばせている弁栄上人への親愛の情を汲んでの訳である。行誡上人は英国から帰朝した南条文雄氏(一八四九~一九二七)にも面会を求め、会ってすぐ、「よくお出でた」といい、南条氏の両膝に両手を差し出し礼拝され、すぐ退出された。再び南条氏の前に進み、短冊を渡し、そこに「御仏の御跡ふむ足尊しな 我戴かん御跡ふむ足」と。行誡上人はインドの地を踏んできた足と思い深く拝されたのである。並々ならぬ釈尊への憧憬がこのエピソードから伝わってくる。弁栄上人はその釈尊謁見の人であり、噂に聞く「三昧発得の人」、行誡上人が「最も謁見したい人」と願わない訳が無い。
また、行誡上人はその明治十三年より、一大事業「大日本校訂大蔵経」(一切経)の発行に着手しているが、版は異なるものの、その一切経を閲読する弁栄上人を心から喜ばれたことであろう。行誡上人は「学問の用心」(『平成新修福田行誡上人全集』(以下『行誡全集』と略す)第三巻、八五~八六頁所収)の中で「法然上人は大蔵経(一切経)を五度読まれている。一度でも大蔵経を通読しないものは、坊主の仲間入りができない。若き人達は、この大蔵経を生涯に一度読むと決意しなさい」(意訳)とあり、また、「秀吉の『太閤記』はお金を出して読み、百巻ある『大智度論』は棚上げし一度も読まないのは困った咄じゃ」(意訳)と歎いてもいる。また、「宗旨之事」の中で「宗内のことのみに固執し仏法の全体に眼を注がず、折角広大なる仏法をけちな仏法としてしまい、結局それぞれの宗を開宗した高僧方の心を誤って理解し、仏法全体を理解せず、仏法ではない外道になっている」(『行誡全集』三巻三五~三七頁、意訳)といい、「兼学之部」では「仏法の大海では、大魚が生まれるが、水たまりのような小さき水ではメダカも生まれない。古の仏法は、その大いなる水の中で高僧方を続々と輩出しているが、今の仏法は小水であるが故に「ぼうふら」のような僧侶しか生まれない」(『行誡全集』三巻四三~四五頁、意訳)と痛言している。廃仏毀釈を引き起こした要因の一つでもある衰退した仏法(僧侶)の現状を歎く思いの中、仏法の大海である一切経を閲読する大魚(弁栄上人)の存在を聞きつけたのであった。「第一謁見の人」の言葉は、美辞麗句などではなく、心から発せられた歓喜踊躍の言葉といえよう。

天下の黒小僧になれ

『ミオヤの光』縮刷版一巻三四九頁には、弁栄上人に随行された渡辺信孝上人が、その思い出を記している。その中に「印度から帰られてから一部の人の間に〔弁栄〕上人を知恩院にむかえようと運動を企てた信者がいた。その信者が先ず弁栄上人にはかると「いや私は天下の黒小僧にしておいてほしい」といわれた。信者が「なぜですか」と尋ねると「行誡上人がおまえは天下の黒小僧になれと言われましたので」と」行誡上人から弁栄上人への訓誡が伝えられている。「黒小僧になれ」とは墨染めの聖者と謳われた法然上人のような聖なる道を歩みなさいとの意であろう。行誡上人はまた、二十五条の袈裟を遷化の直前に弁栄上人に贈られてもいるが、行誡上人自身が歩み得なかった「黒小僧」の道を弁栄上人に託されたものと拝察する。
行誡上人は周囲の強い要請と、法難の時代背景、そして増上寺再建や大蔵経発刊などの事業完遂の使命の為に、回向院や伝通院そして、増上寺、知恩院に転住されている。著書や伝記などから転住(出世)する行誡上人の思いを推し量ると、その本心は釈尊や法然上人、恩師徳本上人、そして後の弁栄上人のように野の聖(黒小僧)として、錫杖と鉄鉢のみで各地に仏法を伝えることに邁進したかったものと推察する。
例えば、まず時代がそれを許さなかった。明治五年十一月、明治政府が僧侶の托鉢を禁止しているのである。行誡上人は自身が托鉢して法を伝える「黒小僧」の道ではなく、後世の僧侶の為に、その閉ざされた道を開くため、組織(僧伽)の先頭に立つ道を自身の使命として選択されたのではなかろうか。行誡上人の和歌に
法のため身をすて小舟おなじくは この荒磯にくちねとぞ思ふ

とあるが、素意であった「黒小僧」の道を捨てて、法のためにこの身を捧げるとの決意が伝わってくる。因みにその托鉢は、行誡上人が他宗の管長と同盟をくみ、政府に抗議要請したことも要因の一つとなったのであろう。明治十四年八月に、托鉢が解禁されている。因みにその仏法に身を捧げるとの舟の道詠は弁栄上人にもある。
法の師のめぐみのうみに捨小舟 身をあらなみによしくだくとも

さて、行誡上人は、周囲の強い要請もあり「黒小僧」の道を断念している。回向院の檀家から晋山打診の要請が再三あり、何度も断られたようであるが、ついにその懇請を受け入れられた。ただ、その晋山の際に「私行誡はかつてこのように思っていた。生涯必ず檀家のある寺院に住むことはしない。しかし今、本院の住職とならなければならない状況に至ってしまった。これはまさしく、私の業の報いがそのように至らしめるのであり、またいかんともすることができない。」との本心を漏らされたと伝えられている(『行誡全集』四巻九五頁)。
さらに増上寺晋山の歌にも「黒小僧」を貫きたかった本心を吐露している。増上寺晋山式にて、墨染めの衣ではなく、はじめて緋衣(赤い衣)を着せられて一句、
山さるの顔より赤きころもきて 我あかはぢをかきのたねかな

と。法然上人のように墨染めの生涯を貫きたかったとの思いが伝わってくる。しかし、「あかはぢ」をかいても、「黒小僧」との素意を貫くこと以上に、法難(国難)の為に身を捧げる決意をされたのであろう。そんな生涯であられたからこそ、行誡上人遷化の際、それを知らせる『明教新誌』(当時の仏教新聞、代表者は大内青巒氏)の誌上にて、その記者は「実に仏門現今の棟梁を失いたる」と痛嘆されているのであろうし、田中木叉上人は弁栄上人の伝記『日本の光』の中で「明治仏教の支柱」と表現している。
そんな行誡上人の心中とお徳を弁栄上人もご存知だったのであろう。後に弁栄上人は佐々木為興上人に「明治の大徳福田行誡上人は誠に立派な御方であった、此の世の修行のみに依りてできたものではない、一に宿業がよかったのである。」(『為興遺文集』七二四~七二五頁)と語られたと伝えられている。

松戸の里

平成に入り新たに『行誡全集』(全十巻)が刊行された。その中に唯一、弁栄上人のことに触れていると思われる「松戸のさとにて」(『行誡全集』別巻二、一五〇頁)との短冊がある。
御ほとけの光まつ戸の里人は 後の世までもたのもしきかな 七十九翁行誡

先の「第一謁見の人」の書簡中にも「松戸の里」とあるが、この「まつ戸の里人」とは弁栄上人を措いて他にいないであろう。また、弁栄上人が一切経閲読中の詠に「のちの世までの友はたのもし」(053頁参照)と類似の道詠があり、両上人の不思議な共鳴がそこにある。
行誡上人遷化後に弁栄上人は新しき法門「光明主義」を唱導されたが、『行誡全集』を拝読して行誡上人の思いを推し量ると、釈尊と法然上人の真随を伝える「光明主義」をご覧になったならば、心から随喜されたに違いない。それどころか、上述の行誡上人の遺志をも継承している「光明主義」とも思えてくる。「後の世までもたのもしき」とはまさにその将来を予見しているかのようである。

平成三十一年と回向院

行誡上人が両国回向院の住職をされていた明治二年に「回向院行誡釈門新規三策」と「諸宗同徳会盟議案」を著している。その内容は廃仏毀釈を引き起こした「太政官布告」(「神仏分離令」)への対応策の私案を綴った文面である。つまり、行誡上人が「廃仏毀釈」対策の狼煙を上げたのは、その明治二年(一八六九)ということであり、それは回向院住職時代である。二〇一九年は、実に、行誡上人日本仏教再興一五〇年記念の年に正当するのである。
「新規三策」は政府にもの申すというより、「僧侶五失」を挙げるなど、僧侶の猛省を促す内容であり、また、その中で「仏家の廃仏を悲しむは、寺塔の破壊をかなしむに非ず、衣食の減ずるを悲しむに非ず、官禄を失するを悲しむに非ず、唯天人に此至善の道を失するを悲しむなり。僧侶の興法を念じ、廃仏を防ぐ、只此れが為なり」とある。廃仏毀釈を行誡上人は「僧侶の興法を念ずる」逆縁として活かしていくことを説いている。
更に次の二つの文献から、一つの事実が浮かび上がってくる。『戒浄上人伝』一四三頁に「梵語学の大家である荻原雲来博士が明治三十八年(三十七才)十月九日ドイツより帰朝され、その時の祝賀会に弁栄聖者も出席されたが、席上、聖者が博士に、「仏念いの一念になり切っているこの事実を専門の立場からは何といいますか」と聞かれると、博士は「仏陀禅那」と答えられたという。これは弁栄聖者より戒浄上人が直接承われたことである。」とあり、この戒浄上人の証言により、弁栄上人が法類である雲来上人(大正九年より浅草誓願寺住職)の祝賀会に参加されたことが分かる。また、弁栄上人は明治三十年から「仏陀禅那」号を使用である(009頁参照)が、荻原雲来上人からも仏念いの一念になりきることは「仏陀禅那」で間違いないと裏付けを頂いたのであろう。
そして、『浄土教報』明治三十八年十月十六日に発行された六六五号の十六頁に「来る〔十月〕二十九日(第五日曜)午後三時より両国回向院に於て荻原雲来師、荻原得定師、帰朝歓迎会相開き候間各位万障御繰合御参会被下度此段御案内申上候也」とあり、その後の号でも回向院で開催された歓迎会の報告がなされている。この二つの文献の照合により、その歓迎会(祝賀会)の会所である、両国回向院は弁栄上人の遺跡寺院(ご縁の有った寺院)であることが判明した。

おわりに

二〇一九年は弁栄上人百回忌のみならず、行誡上人の日本仏教再興一五〇年記念でもあること、また、回向院が弁栄上人の遺跡寺院であることが判明できたのあるが、これも不思議な因縁と導きであると、喜びを禁じ得ない。また仏法衰退の一途へと向かう今日において、両上人のご遺志に触れる機縁を通して、両上人への慈恩に酬いるために、共々に仏教再興を発願しつつ、ただ一向に光明の道を邁進したい。

はりつたふねずみの道もみちなれど 誠のみちぞ人のゆく道 行誡上人道詠
よろづ代はまだ遠ければいま更に ふたたび照らせ仏陀伽耶の月 弁栄上人道詠