山崎弁栄上人略伝

山崎弁栄上人は黒船来航から6年後、また明治維新から先立つこと丁度10年、安政6(1859)年2月20日、千葉県柏市鷲野谷(わしのや)の農家、父嘉平(かへい)、母なおの長男として生を受け、幼名を「啓之助(けいのすけ)」といいました。熱心な念仏者であった嘉平の影響もあり、幼少の頃より南無阿弥陀仏と称える念仏を、日々親しみながらすくすくと成長していきました。

農事に励み、学問を好み、仏に思いをよせる啓之助は12歳の時、家の杉林の前で、念仏を称えながら、晴れ渡った西の空に、弥陀三尊(阿弥陀仏、観音菩薩、勢至菩薩)を想像していました。その麗しいお姿を前にして、「今は想像の仏さまだが、いつか真実の仏さまにお目にかりたい」と念願するのでした。

  • 日々熱心に念仏する山崎家

  • 生家の杉林、昭和7年8月撮影

  • 弁栄上人筆阿弥陀三尊像


 明治12(1879)年、21歳にして、両親に懇願の末、出家の素懐を遂げ「弁栄」という名前を授かりました。千葉県松戸市の名刹、浄土宗東漸寺の大谷大康(たいこう)上人に師事し、毎夜熟睡3時間の他は寺の法務や雑務、学問に忙しく、また昼も夜も常に念仏を貫きながら過ごしました。この頃、手のひらに油を入れ、これに浸した灯心に火を灯し、それを仏さまに供養するなどして睡魔を払い、「弁栄は寝ないのだろうか」との噂の立つほど日々精進されたのでした。

  • 東漸寺

  • 手のひらに火を灯しながら

  • よく籠もって修行された観音堂

  • お寺の掃除をする弁栄上人


机上の仏教のみではなく、実際に歩む仏道を邁進していた弁栄上人は「ただ理窟ばかりこねまわしていたのではだめだ。農業でも理窟だけでは一粒の米も獲ることはできない。自己の人格に結ぶ果も、念仏三昧の実行の中に育まれていくものだ」との思いが高まり、明治15(1882)年、筑波山に2ヶ月籠もり、昼は洞窟の中で念仏し、夜は巌の上で礼拝の日々を過ごされました。猿やヘビ、ムカデなどが親しみ近づくほど、自然の中に融け入り、やがて安らかで静寂なる心境、仏さまや浄土の様子が現前の事実となって現れる三昧発得という深い深い境地に達せられました。その時の円満な心境を、

弥陀身心遍法界(みだしんじんへんほっかい)

衆生念仏仏還念(しゅじょうねんぶつぶつげんねん)

一心専念能所亡(いっしんせんねんのうしょもう)

果満覚王独了々(かまんかくおうどくりょうりょう)

と後に吐露されました。

現代語訳 阿弥陀仏の身と心は、宇宙すべてを身とし心とし、〔いかなるところであっても現れて下さいます。〕私達が南無阿弥陀仏と念ずれば、阿弥陀仏もまた、私達を〔大慈悲の心をもって〕念じて下さっているのです。〔こんな愚かな私達を、いつでもどこでも仏は念じて下さっているのですから、私達も、ただ〕一心に専ら〔南無阿弥陀仏と仏を〕念ずるのです。そうすると〔深い三昧へと入っていき〕、仏と私という対立がなくなっていき、最終的にただ阿弥陀仏が独り〔尊く在すことを〕はっきりと覚るのです。
※〔 〕によって著者が補いました。

  • 筑波山

  • 筑波山の洞窟での修行

  • 三昧発得された心境の吐露


その後、3年間ほどかけて、仏教の経論を網羅した7334巻もあるという一切経(いっさいきょう)を読了し、また、師大谷大康上人の遺志を継ぎ、千葉県松戸市五香(ごこう)に善光寺を創建されました。

明治27(1894)年12月15日より明治28(1895)年3月下旬まで、お釈迦さまを敬慕する思いが募り、当時としては極めて稀であるインドへ渡り、お釈迦さまの遺跡を巡拝されたのでした。

弁栄上人のご生涯を大きく二つに分けるとすれば、このインド巡礼などをされた、明治20年代までを、自らの修行に重きをおいた自行(じぎょう)の時代、そして、明治30年より、小冊子を著すなどを萌芽として御縁の方を光明中へと引導(いんどう)する化他(けた)の時代に入っていかれたのでした。

明治政府の指導のもと文明開化の一途を辿り、古き物が否定され、もしくは軽んじられ、ただ物質文明の進歩にのみ焦るこの時代。思想面でも、キリスト教の布教が公に許され、また自然科学、西洋哲学と様々な学問が怒濤のごとく流入してきたこの時代。明治政府の政策や、腐敗した寺院への反発から、廃仏毀釈の運動が勃興し、多くの寺院が破壊され、僧侶は還俗させられるという、日本仏教史上、最大の窮地の時代。また西方極楽の存在など、科学で実証されないものは真理ではないという科学万能主義の時代に犯され、若き仏教徒は信仰を失う時代へと突入していきました。弁栄上人はそれらの時代の流れと、その問題点に真摯に向き合い、また、自身の念仏三昧体験を根底として、新しい法門、「光明主義」をもって布教されたのでした。それは、お釈迦さまや浄土宗の宗祖法然上人の教えを否定するものではなく、その意志に則り、現代人を念仏へと誘引する尊い教えを説かれたのでした。先の一切経の拝読やインドへの参拝は、「現代の人々・将来の人々を精神的に救済するため、いかにして仏道を伝えていくか」そのことを、お釈迦さまや法然上人などの先達と相談をする時間であったのでしょう。

  • 東漸寺蔵の一切経

  • 五香善光寺

  • 弁栄筆仏陀伽耶の図


弁栄上人云(いわ)く「私達はお釈迦さまの教えに随い、阿弥陀仏の光明に触れ清らかな人となり、身と心共に安らかで歓喜の日々とならせて頂くのです。そして、阿弥陀仏より与えられた力をもって、世の為人の為に御旨に契うように努力し、いよいよ命終るときは、お釈迦さまの跡を慕い、光明輝く阿弥陀仏の浄土に帰っていくのです」と。

また云く「光明主義は活きた法然上人の意志を受け継ぎ、仏さまの光明によって、闇黒に迷っている今の世の中の人の心を、明るい光明の中に導き、この世から、仏さまの光明中の生活ができるように導くのが目的である」と。この人生を終えた後、極楽に往生するという、来世の救いのみを強調するのではなく、もちろんそれを最終的な人生の目的としながらも、この世から仏さまの光明に照らされ、精神的に育まれていくこと、それこそがお釈迦さま・法然上人の遺志に適うことと確信され、強調されたのでした。

  • 弁栄上人筆弥陀釈迦法然図


弁栄上人は人々を光明中へと誘引する為、あらゆる手だてを用いました。例えば、ご自身が作詞なされた仏教聖歌に、キリスト教の賛美歌の節を拝借し、アコーディオンやオルガンを用いて、子供達と歌いながらその情操を育み、また極楽浄土の様子を説く『阿弥陀経』を子供から大人まで親しむことができるよう絵にてして出版され、それは27万部にもおよびました。

また、御縁の方に仏画を差し上げ、日々空いた時間や夜遅くまで、御縁の方のため、仏画を描かれていました。ある時、苦悩に満ちた女性に観音さまを差し上げたことがありました。その数年後、その女性と再会し、その女性の光明中の明るい表情に接し、「差し上げた観音さまの様に麗しくなられましたね」と共々に喜ばれたのでした。その仏画の数、数千に止まらず、紙面絹面に現れた数万点の仏・菩薩が、聖者ご遷化の今現在も、そしてこれからも各地で布教し光明中へと誘引していくのです。

  • 弁栄上人ご使用のアコーディオン

  • 阿弥陀経図会

  • 弁栄上人筆白衣観音


そのような明治30(1897)年から亡くなる大正9(1920)年までの化他の日々は、一処に長く留まることなく、また病気静養の他は一日の休養もなく、全国各地や朝鮮までも巡錫されました。浄土宗の奥義を伝える五重相伝という法要でのご法話、一週間ほど念仏中心の生活をする別時念仏会のご指導、後に講演録として出版されることになる『宗祖の皮髄』や『人生の帰趣』などの講題で、浄土宗の本山・各地の寺院・学校・在家の家に赴き講演されました。その合間のちょっとした休みの時間にも、仏画、原稿、多数の手紙、米粒に名号や般若心経・仏画などを描き、無駄に過ごす時間は寸分もなく、ただただ仏に仕える光明の日々でありました。弁栄上人は「仏さまの光の中に生活させて頂けるようになると、仏の聖意が自分の意となって活動できるようになります」と人に勧めておられましたが、そのご本人が実際にその通りのお人柄でしたから、ご在世当時より、ご縁のある方は弁栄上人のことを、弁栄聖者(せいじゃ)と尊称しておられました。

  • 大正元年布教先の九州にて

  • 弁栄上人著、宗祖の皮髄

  • 人生の帰趣

  • 弁栄上人筆、米粒釈迦三尊十六羅漢


 60歳となられた大正7(1918)年7月、神奈川県当麻(たいま)の時宗(じしゅう)当麻派(たいまは)の本山である無量光寺の御住職となられ、その翌年、その無量光寺にて光明学園を開園し、庫裡の2階を教室とし、その土地の少年や有縁の信者の子弟を導かれたのでした。

かくして、62歳の大正9(1920)年、全国を休み無く巡錫されたその御体は、聖者とはいえ、無常の肉体、11月下旬北越の地において、ついに危篤となられました。その状態にあっても尚、苦しいお息の合間、側にいるものの為に口から発せされる言葉はご法話のみ。そして、「如来は…いつもましますけれども……衆生は知らない……それを知らせに来たのが弁栄である」と、自分の使命を有縁の方々にバトンを渡すかのように伝え、12月4日の雪の中、柏崎市極楽寺において御遷化されました。現在もお浄土より、仏・菩薩と共に、私達を慈しみ導いて下さっています。

南無阿弥陀仏

末学沙門願譽昭教謹んで記す

  • 無量光寺の庫裡

  • 大正9年知恩院勢至堂にて

  • 御遷化の様子