弁栄上人に影響を受けた人物

知恩院86世 中村康隆

中村康隆上人(明治39年(1906年)4月28日生~平成20年(2008年)5月8日遷化)は静岡県清水の実相寺の子弟として生まれ、大正9年(1920年)静岡中学在学中、祖母の伴で信州唐沢山の別時念仏会に参加した折り、山崎弁栄と出会い信はじめて僧侶を志す。昭和13年(1938年)より大正大学の講師となり、教授、学部長、学長等を努め、昭和57年増上寺85世に晋董し、平成5年(1993年)浄土門主、知恩院門跡(第86世)に晋董されました。

弁栄聖者との値遇
―祖母のお伴で開いた「求道」への目―

祖母は平素質素で、何のぜいたくもしない人だったが、晩年、といっても私の小学生のころから、たまさか故郷の口野の縁戚の避暑に行ったり、修善寺の温泉宿などに湯治に出かけた時などには、荷物持ちとして私を連れて行ってくれた。そんな時、祖母はいつも土産物に気を配ったり、心づけを奮発したもので、「つかう時にはキッパリするものよ」と教えてくれた。とは言うものの、なかなか人間そんなに気張れないもので、さぞかし祖母は地下でクシャミのし続けのことだろう。

長じて大学を出てからも、ほとんど収入らしいもののなかった私が、どうしても必要の時などは祖母は惜しげなく金を出してくれたし、また父が寺の補修費などに困っていると、財布をはたいて貢いだ姿も目に焼きついている。

祖母の郷里には別に何度か立ち寄った思い出もある。というのは、沼津の御用邸のある島郷の旅館には、大学での恩師、宗教哲学の真野正順教授(後に学長) が、また口野の隣りの董寺には宗教史の大島泰信教授が、よくご家族で避暑に来られたからで、そのどちらにも泊まりがけでお邪魔したからである。

大島先生は作家・武田泰淳氏の岳父で、古寺の民宿には、当時の名ある文学者やラグーザお玉さんなども遊びに来ておられた。泰淳さんとはその後も友人と一緒に『八宗綱要』(仏教諸宗教説)の輪読をしたり、真野先生の山中湖の別荘に学友・佐藤密雄さん(鎌倉大仏高徳院貫主、元大正大学学長)と3人でお邪魔し五湖巡りをしたこともあった。
このお2人の先生には、私ども夫婦の仲人をわずらわしたことであった。

私がいま、一介の僧侶として人生の晩節を迎えているのも、この祖母の導きが大きかった。おばあさん子だった私は、念仏信仰の団体「光明会」の1週間の別時念仏会に、信州上誠訪・唐沢山の阿弥陀寺まで止むなく祖母の伴をし、そこで明治・大正期を通じて最もすぐれた宗教家として今も渇仰される光明会・山崎弁栄聖者にお会いしたのだった。大正9年夏、静岡中学(現・静高)2年の時であった。

生意気盛りの払は、当時の社会的風潮のまま、坊主など葬式法事屋にはなりたくないと思っていたのであるが、一粒の米にも名号や心経や仏画を書いて人々に与え、ある妊婦が安産を祈って飲み込んだら、生まれた赤ん坊の手に握られていたなどと宣伝され、米粒上人とか三味発得の聖者とも仰がれていた、まさにその人から、類いない慈愛の眼差しで温かく迎えられ、すっかり熱中して説法を聞き念仏高唱に励んだことであった。暗中かすかな蝋燭のあかりに、上人が後光に包まれている様を感見し、生涯私も念仏専修の僧になろうと決心したことであった。

後年、大正大学への通学途上、念仏を唱え唱え歩いていて電柱にぶつかり、それを当時の主任教授・推尾弁匡博士に見つかり、ニコリとされたことも忘れ得ぬ思い出である。

弁栄上人のお伝記を見ると、大正8年ごろから毎冬私の寺で別時会を勤められ、その縁で何事にも求道心の強かった祖母のたっての願いでの唐沢山行きであった。そして、そのひと夏から、私は私なりに、いつも仏と行住坐臥一緒だとの信仰を抱くようになったのである。そして、それは年とともにふくらみ、いまも阿弥陀仏なくして私のあり得ぬ思いを深めている。青春時、一度、心の深みでつかみ得た宗教体験は、たとえそれがつたなく細々としたものであっても、いつしか心の底の支えとなり、いつまでも消えずにいることを深くかみしめている日々なのである。

(『光明』601・602合併号 7頁 参照)